BATON一覧バトンで繫ぐ私の透析看護
「成長させていただいた恩返しを」F・Aさん
F・Aさんは、透析看護一筋の眞仁会のレジェンドです。看護科長を退任後も再雇用制度で現場に残り、若いスタッフを助け今も透析看護の最前線にいます。
透析室勤務を始めたのは看護師になりたてでした。もう40年以上も前のことです。機械に依存して生きるとはどういうことなのか、透析については何の知識もなく飛び込み、見るもの聞くものすべてが初めてで驚くことばかりでした。当時の透析機器や透析液では安定した治療は難しく、厳しい食事管理、体重コントロールをせざるを得なかった時代でした。生きるためにはそれを守ることが当然だと考え目に見える数値だけにとらわれ管理のできない患者さんを責めていたような気がします。通常の生活に透析というイベントが一つ加わり心身ともに大変な状況に置かれているという事に思いを馳せることができていませんでした。
ある時体重コントロールがうまくできない40代の女性患者さんに言ってはならない言葉を投げかけてしまいました『そんなこと考えたくない。長生きなんかしなくてもいい!』と強い口調で返されはっとしました。申し訳ないことを言ってしまったと思いましたが、素直に謝れずに避けるようになっていました。そしてまもなくご自宅の近くの施設に転院されてしまいました。自営業のご主人の仕事を手伝いながら子育てもして、いろいろなストレスを抱えていただろうに…。謝る機会を失ったまま数十年が経ちますが、若くて未熟だったあの頃のことを今でも時々思い出します。それからは、病いとともに生きる事の重さを抱えた患者さんたちに寄り添う看護を心がけてきました。今ならきっと素直に謝り、何が大変でどんな困り事があるのかをゆっくり聞くことができると思います。Oさんに教えていただいたことです。
透析室の勤務にも慣れ中堅ナースと呼ばれていた頃のことです。
透析をしても3年から5年の寿命だと説明されていた透析療法の初期の頃の患者さ達も、徐々にいろいろな事が改善され透析歴10年以上の方も多くなってきました。60代女性Hさんは、ご主人と二人暮らし娘さん二人は独立していました。お元気なころは公共交通機関を使って通院されていましたが、治療の長期化に伴う透析アミロイド症が出現し徐々に歩行が困難となってしまいました。しばらくは配偶者が介助しタクシーで通院されていましたが、身体的にも経済的にも負担が大きくなり、『これ以上お父さんに迷惑をかけたくない』と入院透析を希望されました。いわゆる終身の社会的入院です。当時はまだ介護保険制度はなく通院を含め在宅介護は家族にとっても大きな負担でした。
クリニックでの最後の透析が終わって、「リハビリをして歩けるようになったら帰ってきてね。待っているからね」と挨拶をするとHさんは微笑みながら目に涙をためて何度もうなずかれました。私も涙をこらえてもう戻っては来られないかもしれないHさんの後姿を見送りました。今だったらいろいろなサービスを使いながら住み慣れた自宅で生活することができたのに…。
多くの患者さんからたくさんの学びを得て透析と共に生きる人生と患者さんの強さを学ばせていただくことができました。つらい治療を少しでもやわらげて患者さんが生きる意欲を持てる手助けや環境づくりする、それが私の患者さんへの恩返しだという思いがあるから今も仕事を続けていられるのだと思います。